2024年初演時に寄せられた安倍寧氏のコメントより
世界初、ジャズの名曲「セントルイス・ブルース」がバレエ化される
期待される衝突と融合!
安倍 寧
あるとき、セントルイスから一時帰国中の堀内元さんと気軽なお喋りをしていた折に、
「折角、セントルイスと縁ができたのだから、あの有名なジャズの名曲、『セントルイス・ブルース』をバレエ化してみたら?」
と持ち掛けたことがある。ごく軽いひらめきを口にしただけなのに、それがきっかけで本格的バレエ作品が誕生することになろうとは!びっくり仰天。そして何より嬉しい。
セントルイスは全米有数の大都市である。しかし私はふたつのことしか知らない。ジャズ史上最高の名曲誕生の地だということ、そしてわれらが堀内元が、2000年以来、同地のバレエ団の総監督・芸術監督を務めていることのみ。このふたつをくっ付けてみたに過ぎない。
いわゆるご当地ソングはアメリカにも山ほどある。「ニューヨーク・ニューヨーク」「霧のサンフランシスコ」など。だが、「セントルイス・ブルース」以上に格調高い歴史的名曲はほかに見当たらない。
ブルースの父W・C・ハンディ(1873~1958)がこの曲を作詞作曲したのは、20歳の頃といわれる。19世紀末、1893年あたりのことか。
たまたま立ち寄ったセントルイスの裏町で失恋した女のつぶやきを耳にし、町に流れる川のほとりで徹夜して書き上げたと、ものの本には書かれている(野川香文著「ジャズ楽曲の解説」、1951年刊)。
曲の始まり、「I hate to see de evening sun go down,」の一句はそのとき川原で見た光景か。
レコードその他に数多くの名演奏、名唱が残されている。なかでもトランペット、唄の二刀流ルイ・アームストロングの熱演には心揺さぶられる。ジャズ・ピアノの大御所ハービー・ハンコックがスティーヴィー・ワンダー(唄、ハーモニカ)をゲストに迎えた豪華版もある。
堀内元さんは、ニューヨーク・シティ・バレエの創設者ジョージ・バランシン最後の愛弟子である。同バレエ団の最高位プリンシパルとして1982年から95年まで主要作品の中心的役割を果たしてきた。バランシンの目指したところのひとつは音楽の完璧な視覚化だとされるが、元さんはその技法、精神を受け継ぐ数少ないダンサーであり、振付家・演出家だと思う。
私は何気なく「セントルイス・ブルース」のバレエ化を提案したが、元さんのキャリアからしてそれが可能だという直感がどこかで働いていたのかもしれない。
堀内元さんは、バレエのかたわら『ソング・アンド・ダンス』『キャッツ』などブロードウェイ・ミュージカルでも重要な役柄を演じている。純粋芸術の舞台とコマーシャル・シアターともに世界の頂点を極めたことになる。このキャリアは〝凄い〟の一語に尽きる。とりわけ『キャッツ』では超難易度の高い回転をこなさなくてはならない魔術師猫ミストフェリーズ役であった。元さんはこの役をブロードウェイだけではなくロンドン・ウエストエンド、東京・札幌など劇団四季の舞台でも演じている。
『キャッツ』を振り付けたジリアン・リンはかつて私に、
「Genは私の秘蔵っ子中の秘蔵っ子よ」と胸を張っていっていた。
堀内元さんは、クラシックとモダン、芸術とショウビジネスなど対立するふたつのものを同時に体得するという貴重な経験を積み重ねてきた。一方、依然として一ダンサーとしての気概にもあふれている。今回ももちろん出演する。作り手としてダンサーとして全キャリアを賭けた円熟、そして新境地を期待せずにいられない。時代色豊かなブルースと最先端のダンス感覚をどう衝突させ、どう融合させてみせるのか。
作曲・編曲・音楽監督は在ニューヨークの徳家”Toya”敦。演奏はジャズ・コンボのToya & Friends。ブルースの古典を素材にどのような楽想が繰り広げられるのだろう。ヴォーカルはミュージカルで活躍する剣幸。
なお「セントルイス・ブルース」のバレエ化は、堀内さんの総監督・芸術監督就任当時、三浦雅士氏が「ダンスマガジン」誌上で言及されていたようです。ここに明記し、三浦先生に敬意を表します。
あべやすし:音楽評論家(主として内外ポピュラー音楽、ミュージカル)。1965年から各シーズン、ブロードウェイを見続けている。劇団四季取締役として企画・国際部門などを担当した時期もある。著書に「VIVA! 劇団四季ミュージカル」「ミュージカルにI LOVE YOU」「ミュージカル教室へようこそ!」(日之出出版)他。ブログ http://ameblo.jp/abe-yasushi/
米日バレエ界、その舞台表裏で芸術・経営の二刀流を発揮する堀内元
語り=安倍 寧 talk by Yasushi Abe
4月3日から5日まで、東京・浜松町の自由劇場で、堀内元BALLET FUTURE『Ballet on BROADWAY(バレエ・オン・ブロードウェイ)〜劇団四季の舞台を彩った振付家のバレエ傑作集〜』が上演されます。堀内元さん率いるアメリカのセントルイス・バレエ団の来日公演で、一部のナンバーには、劇団四季の俳優も出演する予定です。
堀内元さんは、バレエ界の巨匠ジョージ・バランシンに見出され、名門ニューヨーク・シティ・バレエで東洋人初のプリンシパルとして活躍するかたわら、ミュージカル『キャッツ』のマジシャン猫ミストフェリーズ役で、ブロードウェイとロンドンのウエストエンド、そして劇団四季の公演では東京、札幌の舞台にも立っている米日を代表するバレエ・ダンサーであり振付家です。以前この「千夜一夜」でも私と対談をしているので、ご記憶の方も多いのではないでしょうか。
今回の来日公演のプログラムには、ジェローム・ロビンス(『ウェストサイド物語』)振付の『INTERPLAY』、スーザン・ストローマン(『クレイジー・フォー・ユー』『コンタクト』)の『TAKE FIVE MORE OR LESS』、クリストファー・ウィールドン(『パリのアメリカ人』)の『CAROUSEL(回転木馬)』パ・ド・ドゥといった、劇団四季に縁のある振付家による作品が並んでいますが、全プロを通してのメインは、元さん自身が主演・構成・演出・振付を手がける第2部の『セントルイス・ブルース』です。この作品は元さんの最新作で、24年にセントルイスで初演、同年5月には日本でも、「堀内元BALLET FUTURE 2024 〜バレエ『セントルイス・ブルース』 byセントルイス・バレエ&フレンズ〜」として1回だけでしたが来日公演をおこない、洒脱な舞台が評判を呼びました。今回の自由劇場では3日間計5回の公演が予定されています。
しかし、そもそもなぜアメリカ人なら誰もが知るジャズのスタンダード・ナンバー「セントルイス・ブルース」(W・C・ハンディ作曲)がバレエ作品になったのか。この経緯にはいささか私も関係しているのですが、その辺りの裏話は次号でご披露することにして、今回はその前に、アメリカ中西部、ミズーリ州の首都セントルイスに本拠地を置くセントルイス・バレエが、なぜアメリカ有数のバレエ団のひとつにのし上がることができたのか、まずはその辺の話題からお話ししたいと思います。
元さんとセントルイス・バレエの関係は、1996年、彼がまだニューヨーク・シティ・バレエ在団中に、ケガをした団員に代わって急きょセントルイス・バレエの公演に出演したことから始まりました。その縁で、2000年からは同バレエ団の芸術監督に就任します。日本人がアメリカのバレエ団の芸術監督を務めるのは初めてのことでした。アメリカでは、中小都市のバレエ団が、大都市の超一流バレエ団からダンサーや振付家、指導者を兼ねる優秀な人材を譲り受けることがあって、それが全米のバレエ・ネットワークをより強固なものにしてきたのですが、セントルイス・バレエ団が、ニューヨーク・シティ・バレエに元さんを招聘したいと頼んだのは、元さんのダンサーとしての腕前を大いに評価していただけでなく、指導者としての高い資質を見抜いていたこともあるでしょう。そこが、アメリカ人でないにも係わらず、アメリカのバレエ団のリーダーとして乞われた大きな理由のひとつだと考えられます。
さらに元さんには、組織をまとめていくという経営者としての隠れた才能もありました。彼はセントルイスに赴任後、芸術監督として若いダンサーを育成し、毎年精力的に新作を発表する一方で、大きな負債を抱え、さらに前監督の急逝で存続の危機に瀕していたバレエ団を立て直すため、優れた経営の才を発揮します。まず地元の支持層を増やしてファンを組織化し、財政的支援を盤石化することでバレエ団の財政基盤を確立して、宣伝活動にも力を入れ、ファン層も含めたバレエ団という大きな組織を確固たるものにしました。今やセントルイス・バレエに所属するダンサーは、元さんが就任する前の倍の人数に増え、主要ダンサーも団員も、整った環境の中でめきめきと腕を上げ、全米1、2を争うと言ってもおかしくないアメリカを代表するバレエ団へと成長を遂げました。このことについては元さん本人が、やはり芸術面と経営面の両方で劇団四季を牽引してきた浅利慶太から受けた影響が大きいと何かにつけ語っています。
このセントルイス・バレエのように、アメリカの主要都市には、必ずオーケストラやバレエ団、オペラやミュージカルのカンパニーなどがありますが、それはどうしてなのか、昔、不思議に思って小澤征爾に尋ねてみたことがあります。すると、こんな答えが返ってきました。
「アメリカには各都市にプロ野球のチームがある。それを地元の人たちが応援する。それと同じことなんだ。各地に様々な芸術集団がありファンがついていて、経営面を含め応援しているからだよ」
アメリカでは、地方都市でも芸術集団の支持層がいかに厚いか、私は驚き、すっかり感心してしまいました。中でもビッグなのがフィラデルフィア管弦楽団やボストン交響楽団で、その辺の事情を、ボストンの指揮者を長年務めていた小澤はよく知っていたのです。この話は、私が様々な場で書いたり喋ったりしているので目や耳に触れた方もいらっしゃるかもしれません。
小澤が言った通り、アメリカではセントルイス・バレエやニューヨーク・シティ・バレエのように都市の名前がついた芸術集団を、その地元の市町村など公共団体が尻押しして、街を挙げて盛り上げています。しかし日本の場合は、牧阿佐美バレエ団や松山バレエ団など個人名がついたバレエ団が多いことでもわかるように、ほとんどが芸術家中心です。芸術団体と行政、そして市民、この3つが一体となって、地元に密着した、その都市ならではの芸術団体を作りあげているアメリカとの大きな違いだと思います。
最後に、なぜ今回、堀内元さんが率いるセントルイス・バレエの来日公演を、劇団四季の専用劇場である自由劇場でおこなうのかについても、触れておきます。元さんの父で、ユニークバレエシアターを創設した舞踊家、振付家の堀内完さんは、戦後、多くの舞台芸術家を世に送り出した舞台芸術学院の1期生で、浅利の姉陽子さんと同期生でした。その関係で、浅利の依頼を受けた完さんが、『はだかの王様』映画版の一場面を振り付けたことがあり、息子の元さん自身も浅利の依頼で、長野冬季五輪文化芸術祭参加作品の新版ロイド=ウェバー・コンサート『ソング&バレエ』に、構成・振付の1人として参加しています。劇団四季及び浅利慶太と堀内元さんが浅からぬ縁で結ばれていることがわかるでしょう。(「ラ・アルプ」2月号より転載)
(構成・文=原田順子)
堀内元の、ジャンルを超えた国際性
語り=安倍 寧 talk by Yasushi Abe
先月号では、堀内元さん率いるセントルイス・バレエが、一地方のバレエ団から、いかにして全米有数のバレエ団のひとつに成長したかという話題を取り上げましたが、今月号では、そのセントルイス・バレエが4月に自由劇場でおこなう来日公演のメインプログラム、『セントルイス・ブルース』について、私もいささか係わることになったその誕生にまつわる裏話をご披露します。
2000年に元さんがセントルイス・バレエの芸術監督に就任すると聞いた時、真っ先に私の頭に浮かんだのは、あのルイ・アームストロングの「セントルイス・ブルース」で有名な街のバレエ団で芸術監督になるとは、なんて素晴らしいことだろうという驚きと賞賛の思いでした。「セントルイス・ブルース」は、アメリカ人であれば誰もが知るジャズのスタンダード・ナンバーで、例えばサンフランシスコなら「想い出のサンフランシスコ」、ニューヨークなら「ニューヨーク、ニューヨーク」というような単なるご当地ソングにとどまらず、ルイ・アームストロングのトランペットの名演奏と絶品のヴォーカルによって、アメリカ国内だけでなく日本をはじめ世界中に知れわたっている名曲です。
私がルイ・アームストロングの「セントルイス・ブルース」を初めて聴いたのは、デッカ・レーベルのシングル盤レコードでした。1950年代に入って間もない頃のことだったと記憶しています。当時この「セントルイス・ブルース」は、同じくアームストロングが、流行りの言葉で言えば歌と演奏の“二刀流”でデッカからリリースしたシャンソンの二大名曲「セ・シ・ボン」「ラ・ヴィ・アン・ローズ」と並んで世界的大ヒットを記録し、「スウィングジャーナル」などのジャズ雑誌でも盛んに紹介されて話題になっていました。
なぜジャズ・ミュージシャンであるアームストロングがシャンソンを演奏するのかと不思議に思われた向きもあるかと思いますが、ジャズもシャンソンも庶民の歌という大きな共通点があります。実際この二大シャンソンは、アームストロングのあの人間味あふれるハートウォーミングな演奏や歌唱がなければこれほど世界的なヒットには至らず、パリの街角の小唄に留まっていたかもしれません。彼ほど感情がそのまま聴き手に伝わる演奏者はいませんから、彼の演奏が全世界のジャズファンの心を打ったのです。その意味でアームストロングは、ジャズ自体がアメリカのジャズメンの功績で世界中に伝えられたように、パリのシャンソンを世界のシャンソンに変貌させる上で大きな一翼を担っていたと言えるでしょう。もちろん街角の小唄としての風情を愛する人たちの中には、世界的にヒットしたシャンソンはちょっとニュアンスが違う形で伝わってしまったのではないかという懸念を抱く人もいるかもしれませんが、庶民の歌という感覚は残っていると感じます。そしてもうひとつ、シャンソンが世界中で愛されるようになったのには、ジャンルにこだわらずいい曲、いい演奏であれば、ジャズでなくても世界中に伝えようというレコード会社各社の姿勢も大きかったのではないでしょうか。
1953年に私は、今はない浅草の国際劇場でアームストロングの演奏を生で聴いています。ステージも客席も、まさに彼の持ち味である人間味を絵に描いたような空気に包まれていました。アームストロングの顔は“がま口(Dipper)”と呼ばれていたという通り、こう言ってはなんですが、ちょっとギョッとするほど大きな口が特徴的で、あのサッチモという有名なニックネームも、「Satchel Mouth(がま口)」、または「Such a mouth!(なんて口だ!)」と言われたことから来ているそうです。ところがひとたびトランペットを吹き、歌い始めると、これが実に愛嬌のある顔に変わるのです。またこのコンボのサイドを務めるトロンボーンに、トラミィ・ヤングという名手中の名手がいたのですが、そのヤングがこれまた実に紳士的で、躍動感あふれる舞台上での演奏はアームストロングと好一対をなしていたのも楽しいものでした。
1960年代半ばにラスベガスまでいくつかショーを観に出かけた際には、一流ホテル内のカジノでポーカーのテーブルに客として座っているアームストロングを見かけたこともあります。一目で彼だとわかりました。取り巻きに囲まれていましたが、スター然とした気どりはまったく見られず、ゲームに興奮している様子もなく終始ニコニコ顔でした。
私にとってルイ・アームストロングと「セントルイス・ブルース」にまつわるいくつかの思い出は、初めてデッカ・レーベルのシングル盤を聴いた時に受けた胸を撃ち抜かれるような衝撃と共にずっと心の片隅に残っていて、このデキシーランドジャズ以来の伝統的なスタイルで書かれているアメリカ随一と言ってもいいヒットソングが、どうして地元の芸術集団と結びつかないのかという思いを長い間抱えていました。なぜなら「セントルイス・ブルース」の歌の中にはストーリーがあって、この物語性の高さはバレエに非常に向いていると思ったからです。そこで数年前、堀内元さんが帰国して我が家に遊びに来てくれた際に、何気ない雑談から、「セントルイス・ブルース」をバレエ化したらどうかと、長く温めてきたアイディアを提案しました。
私のこの提案を受けて、元さんは以前から「セントルイス・ブルース」に強い関心を持っていたというニューヨーク在住の音楽家、徳家敦さんに話を持ちかけ、バレエ化の構想はすぐに動き出しました。振付も手がけた元さんは、ただ名曲にそのまま振付を乗せるのではなく、曲をモチーフにしながら新たに組曲として構成し、曲が生まれた背景や作曲家の思いを作品の流れにして、より広がりを持ったものにしようと思いついたそうです。振付は2週間ほどで完成し、こうして生まれたバレエ『セントルイス・ブルース』は、2024年、セントルイス・バレエによって初演され、地元セントルイスの観客から熱狂的に迎えられました。私の長年の思いがようやく具体化し、こんなに嬉しいことはありません。しかしこれも、元さんがセントルイス・バレエの芸術監督にならなければ実現できたかどうか危ぶまれます。ルイ・アームストロングのジャズの名曲が、堀内元という日本の優れたダンサーであり国際的なバレエ・コレオグラファーでもある人の手でバレエ化されるという、国の垣根を越えた芸術的な協力によって、ジャンルをも超越した大きな芸術的ネットワークが実現し、ひとつの総合芸術が誕生したと言ってもいいのではないでしょうか。
20世紀に入り、世界中の芸術ジャンルが大きな変革を遂げました。ひとつはジャンルの混合、もうひとつは地球規模の国際化です。いい意味で分野の交流が図られています。20世紀世界芸術の大きな特色です。
バレエ界もこの波を被らないはずがありません。堀内元はその先端を行っています。たくましくもあり頼もしいことでもあります。(「ラ・アルプ」3月号より転載)
(構成・文=原田順子)
あべやすし:音楽評論家(主として内外ポピュラー音楽、ミュージカル)。1965年から各シーズン、ブロードウェイを見続けている。劇団四季取締役として企画・国際部門などを担当した時期もある。著書に「VIVA! 劇団四季ミュージカル」「ミュージカルにI LOVE YOU」「ミュージカル教室へようこそ!」(日之出出版)他。ブログ http://ameblo.jp/abe-yasushi/